屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

市民よ家に籠れ (下)

 やはり世界はきれいにひっくり返ってしまったらしい。

   大型スーパーにもかかわらず、パスタとトイレットペーパーの棚がすっかり空になっている。こうした買い占め行為は14日夜の店舗閉鎖の発表のときにはすでに始まっていたらしく、たしかに花を買ったあの日も大きなカートを引いていく人をいくらか目にしたものだった。もちろん外出禁止といっても物流が止まるわけではないし、運悪くウイルスに感染したとて必ずお腹がゆるくなるわけでもないだろう。それなのにニュースに伝え聞くところでは、パンデミック宣言以降、世界中の人々がまるで示し合わせたように保存食品とトイレットペーパーを買いに走ったのだという。食品はまあ分からないでもないけれど、なぜ人類はこの非常時に及んでおしりの衛生の心配などしてしまうのか。これについては個人的に思い当たる節があるので、機を改めて書いてみたい。どうしてそれらをそんなに買うか - 屋根裏(隔離生活)通信



 野菜はじゅうぶん残っていたから、ぼくが貧乏の友と呼ぶところのいつもの顔ぶれ(玉ねぎ、にんじん、ねぎ、じゃがいも、マッシュルームなど汎用性の高いもの)を5日分ほど籠に入れた。他のお客とすれ違いそうになったとき、人恋しさも手伝ってニコッと笑いかけてみたけれど、彼はこちらを見向きもせずにそそくさと通り過ぎてしまった。こんなとき、ほんのひと月ほど前までは「アジア人だから怖がられ、避けられた」という解釈がまあ不可能でもなかったものだ。しかし感染がこうも広がった今となっては、中国人でなく日本人だから安心だとか、フランス人でなくイタリア人だから危ないとか、そういう小ざかしい意識の垣根は人々の頭から消え失せてしまった。あなたが何処の誰であろうと同じくらい怖いし、わたしが何処の誰であろうと同じくらい怖がられてもいる。これもまたある意味で人間という種の本質を示す現象のように思えるのである。

 会計を終え出口に向かうとき、先ほどの不愛想な警備スタッフが小柄な老婦人を呼び止めるのが見えた。マダム、かばんの中にお会計の済んでいない商品がありますね。一緒にこちらへ来てください。女性は言い逃れもせずに、しょんぼりと肩を落としたまま、倍の背丈もありそうなスタッフに促され店の奥へと消えていった。こんなにお客の少ない時勢ではかえって見つかりやすいだろうに何故だろう。彼女は彼女なりのやり方で、急変した世界に付いていこうと試みたのかもしれない。

 帰り道は別の道を通ることにした。パリでは三千人以上もの人々が路上で暮らしていて、そのうちの20人ほどが、夜になると近所の通りのアーケード下に寝床を構える。家を持たない彼らにとっては外出制限など無理な話だし、なによりこんな人通りもなく、一軒のレストランも開いていない街で、これからどうやって食べていくつもりかと気になったのだ。さいわい買い物で小銭ができたから、もし頼まれたら少し渡してあげられる。
 そこには意外な光景があった。普段であれば道の隅っこで寝袋に収まり、さなぎのように壁にくっついてじっと寒さに耐えている彼らが、今夜はめいめい好きなところに悠然と腰を下ろし、仲間と談笑したり、連れの犬を撫で回したりしている。いつもの胸を刺すような悲惨さも、今夜の彼らの姿からは影を潜めている。

 近づいてくるまれな通行人であるぼくを見て、年取った男が歯の欠けた口を大きく開いて「だあれもいないぞ!」と叫んだ。ぼくも真似して「だあれもいないね!」と返す。犬を連れた男が「煙草を一本いただけませんか」と聞いてきた。代わりに小銭を差し出すと彼は喜んで受け取ってくれたが、握手の手は伸びてこなかった。彼らもやはり感染が不安なのだろう。外出せずに済む家があったら、きっと彼らもそうしているのだ。

眠りを妨げる車の音もなく、心をえぐる通行人の軽蔑に満ちた視線もない。今晩パリは彼ら家なき自由市民の王国になった。たとえ束の間の天下であっても、それがいったい何だろう。ぼくら家ある人々が昨日まで当たり前に享受していた、レストランや恋人やパスタやトイレットペーパーからなる日常の王国だって、あんがい砂の城のようなものだと知れてしまったばかりではないか。

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無人となった大通り。奥に見えるのはオペラ座である。