屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

ひろゆきさんの屁理屈。「差別」を認めない日本人の心理とは?

「でも、ひろゆきもあれは差別じゃなくて悪口だって言ってるよ?」

前回の記事を載せてから日本の友達がくれたLINEメッセージに、ぼくはとても驚いた。メッセージにはヤフーニュースへのリンクが付いていて、確かにこういう記事が載っている。

ひろゆき氏「人種差別と悪口は区別すべき」仏サッカー選手の発言騒動に私見(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース

ひろゆきさんといえばナイキ・ジャパンのいじめや差別をテーマにしたCMが炎上したとき企業側を支持する姿勢を見せていて、意外にリベラルな方なんだなあと感心したことを覚えている。その彼までもが動画は差別に当たらないと言っているのなら、もしかして前回ぼくが書いた事はぜんぶ、事実というよりそれってわたしの感想ですかね? …と、ちょっと心配になりつつ記事を読んだ。

 その感想は、ひろゆきさんも辻さんと同じくかなり無理矢理な逆張りをしたなあというものだ。フランス語ネイティブや言語の専門家からすでにさんざん指摘されているようだけれど、「単語に差別的意味はないのでこれはただの悪口と考えるべき」というのはあまりに時代錯誤な意見だと思う。認定書付きの差別用語をそのまま相手に投げつけるような単純明快な差別など、今どきどれほど行われているだろう? 人種差別がもはやそういう露骨な形を取らず、日常の語彙や社会の仕組みに溶け込んでいることを大前提として、フランスに限らずあらゆる多民族国家は差別問題に取り組んでいるはずだ。具体的にはracisme banalisé(日常化した人種差別)や racisme systémique(システムのなかの人種差別)という言葉があって、アジア人への人種差別は冗談や冷やかしの形をとりやすいため前者といわれることが多い。

「悪口と差別とを混同したら、他人への冗談や皮肉や批判までもが違法な差別行為と見做されうるようになり、自由にものが言えない社会になってしまう」ひろゆきさんのこういう意見はとくに目新しいものではなく、人種やジェンダーなどに関して言葉の配慮が論じられるたびに必ず誰かが口にするものだ。フランスにはこれを端的に言い表すための''On peut plus rien dire!(オンププリュリヤンディール!)'' 「もう何も言えないじゃん!」というフレーズがある。

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「もうなんにも言えないじゃん!」

「そのわりには、いまだになんでも聞こえてくるよな…」

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「あ~もう、ただの冗談だよ!マジめんどくせえ時代になったよな!もうなんにも言えないじゃん!」「前はそのぶんあたしたちが黙ってただけよ?」


 ちょっと滑稽な響きを持つこの言葉は、いわゆるポリティカル・コレクトネスの価値観を受け入れたくない人の常套句として有名だ。建設的な意見というよりは、議論の腰を折る極論として失笑を買うことのほうが多い。フランスの政治系ミーム(オモシロ画像)には『ありがちフレーズBINGO』ともいうべきものがあって、下に載せたのはそれの保守的人間バージョン。枠のなかには数字の代わりに彼らのお決まりワードが入っており、ひろゆきさんの「もう何も言えないじゃん!」は左上の枠、デンベレ選手が弁明に使った「誰が相手でも同じようにからかう」はそのすぐ下の枠、そしてさらにその下はボーナス枠で「表現の自由」となっている。あとは最下段の「今どきの奴らは小さいことですぐに腹を立てるよな」さえ埋まれば、見事ビンゴ達成というわけだ。

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 しかし、考えてみればほんとに不思議だ。こういうセリフを連発するのはふつう失言を批判された張本人かフランス版の「ネトウヨ」や「老害」にあたる類の人々なのに、辻さんといいひろゆきさんといい、侮辱された側の日本人がどうしてわざわざその役回りを買って出るのだろう?
 
  ニュース記事に寄せられたコメントを見ると「あいつらはフランスかぶれだから必死にフランスを擁護するんだ」という意見が結構あるが、これは理屈に合わないと思う。なぜならこの場合フランス擁護とは「ふたりの選手は厳しく糾弾されています。フランスはこのように人種差別を許さない健全な国ですよ!」とアピールする姿勢であるはずだ。繰り返しになるけれど、現地の世論はこの問題を明確に人種差別のスキャンダルと見ていて、少なくとも主要メディアにおいては「これは差別か悪口か?」なんて疑問を呈する余地さえないのだから。

 一方で、「フランス在住日本人が口を揃えて差別否定を唱えるのは、自分が差別の対象だと思いたくないだけじゃないか?」というコメントにはぎくりとさせられた。自分をなにか例外的な、歓迎され尊重されるマイノリティだと思いたい――こういう心理は自分を含めた海外在住日本人の多くが隠し持っているものかもしれない。古くは百年以上前に書かれた夏目漱石のロンドン留学日記の中にさえ、それを思わせる記述がある。彼曰く「中国人に間違われれば怒り、お世辞で『中国人は嫌いだが日本人は好きだ』と言われれば喜ぶ、そんな日本人が多くて情けない」。悲しいことにこれは現代のパリでもロンドンでも未だに見られる光景だろう。これは想像の域を出ないけれど、もしも今回の動画が日本でなく中国のホテルで撮られていたら、件の在仏日本人たちも難なくフランスの世論に同調し、選手の行為を人種差別と糾弾していたんじゃないだろうか? なぜなら自分が差別の対象であるというコンプレックスが邪魔をしないからだ。

 すこし記事が長くなってしまったから、今回はここで一区切り。「差別じゃないよ!」と言いたくなる心理を、在仏日本人の端くれとしての個人的経験を交えながら、次回の記事で考えてみたい。

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最後にもひとつ、いかにも深刻げなオンププリュリヤンディール。ガチガチの極右雑誌の表紙。

 

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