屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

「住む」と「生きる」は別のこと。(1)

 結論から言えば、「人種差別ではない」という主張で彼らが擁護したかったのは、ふたりの選手でもフランスでもなく日本における自分のイメージなのだと思う。誰だって母国の家族や友達に、自分が外国で容姿や言語を笑われながら暮らしているなんて想像されたくないだろう。ひとりの人間として尊重され、他の人々と平等に扱われていると思われたくて当然だ。まして彼らは日本で有名人なうえ、大なり小なりフランス在住を売りにしているのだから、「あれはホテルの従業員(個人)が嘲笑われただけで、自分(日本人)は関係ありません」というトカゲの尻尾切りをしたくなる心理も分からなくはない。

 想像するに、実際かれらの日常の範囲では、アジア人への人種差別などあってないようなものだろう。フランス社会にどっぷり漬かって仕事をしているわけではないし、お金があれば付き合う相手も住む場所も自分の好みで決められる。なにか差別らしいものに出会うことがあるとすれば、たとえば外を歩いているときにチンピラや酔っ払いから「ニイハオ」とか「ヘイ、ジャッキー・チェン!」とか声を掛けられるくらいのもので、それさえもパリのイイ地区に住んでいれば年に三度も出会わない。社会の一員というよりは長期旅行者に近い身分だから、嫌なものには関わらずにいられるし、それに対して戦うことに義務もなければ利益もない。

 でも、フランス社会に根を下ろして生きるとなれば、その見え方も背負う責任もまったく違ったものになる。問題を存在しないかのように扱うことは、自分や家族の権利や安全を放棄するのと同じことになる。下に引用するのは、グリーズマンTwitterでの弁明文に付いていた返信コメントのひとつ。胸がぎゅっと締め付けられる内容だ。

C'est à cause de moqueries comme ça que ma fille rentre en larmes de l'école parce que d'autres enfants lui ont dit “sale ching chong”, “mangeuse de chiens”. Vous normalisez des comportements abjects qui valent pour toutes les formes de discriminations.
「あなたがしたような嘲りのせいで、私の娘は泣きながら学校から帰ってくるんです。『汚いチン・チョン』とか『犬食い女』とか、他の子どもに言われるからです。あなたはどんな差別にもあてはまるような卑劣な行為を日常化させているんですよ。」

 多民族社会に生まれた子どもはこういう場面を間近に見、ときには自身が経験しながら大人になってゆく。もちろんそれは黒人でもアラブ人でもユダヤ人でも同じで、彼らはたいてい子どものうちに自分の人種にまつわるネガティブなイメージに出会わざるをえない。大人になれば多くの人は差別的な言動を表立ってはしなくなるけれど、それでも配慮に欠けるメディアやプライベートな場所での悪趣味なジョーク、今日では匿名のネット言論などを通じて、差別意識や偏見は次の世代に伝えられてゆく。

自分が子どものころに受けたのと同じ嘲り言葉によって、今度はわが子が泣いて帰ってくるかもしれない。大人になったら偏見のせいで就職に苦労するかもしれない。あるいは憎悪を向けられて、道でいきなり殴られるかもしれない……。彼らにとって人種差別は単発的なモラルやマナーの問題ではなく、一生関わらなければならない現実的な障壁なのだ。
 この社会で「生きている」人々はそれを痛いほど分かっているから、例の動画は一も二もなく人種差別と糾弾された。日本で圧倒的マジョリティとしてすくすくと育ち、その気になればいつでも母国へ引き上げられる――いわばこの地に「住んでいる」だけのぼくたちが、辞書を引き引き彼らの怒りに水を差すなんて、やっぱり相当おこがましいのだ。


 仏日通訳のフローラン・ダバディさんが、動画に関してTwitterでこう書いていた。
(長くなってしまったので、次の記事に続きます。)

 

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