屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

「住む」と「生きる」は別のこと。(2)

(この記事は前回の記事の続きです)

 仏日通訳のフローラン・ダバディさんが、動画についてTwitterでこう書いていた。

「私も子供の時にずっとデンベレ選手出身のパリ郊外でサッカーをしてきた。貧しい階級の子供たち(フランス系であろうが、アフリカ系であろうが)はありえない用語でお互いを差別し、それが面白いと信じています。情けないのは親の教育です」

5年ほど前、ぼくもこういう郊外の貧困地区にアトリエを借りていたことがある。低所得者向けの公営団地がたくさん建っていて、アラブ・アフリカ系の移民が住民の大半を占める場所だ。街並みはどこか殺伐として、打ちひしがれたようなムードが漂っている。

 とても驚いたのは、学校帰りの10歳ぐらいの子どもたちがお互いを「テロリスト」呼ばわりして遊んでいたことだ。ぼくはパリ市内ではそんな場面を見たことがなかった。三角形の面積の計算をようやく学ぶくらいの歳で、彼らは社会から向けられた偏見に満ちた冷たい視線に気付いているのだ。こういう子どもたちが他者を尊重できる大人になるためには、どれだけ多くの教育や精神的なサポートが必要になることだろう?

 アトリエでの仕事を終えてパリ行きのメトロに乗りこんだある夜、こういう子どもが7人くらいどかどかと転がり込んできた。はじめのうちは仲間内でキャアキャアはしゃいでいたが、途中から小声で「Pas de Chinois!(中国人イナイ!)」と言ってはくすくす笑う遊びを始めた。がらがらの車内にはぼくともうひとりアジア人のおじさんが座っており、どちらかが怒り出すスリルを楽しんでいるふうだった。おじさんはいかにも「くそがきめ」といった様子で、無視を決め込んで新聞を読んでいたが、ぼくは彼らのことをもう少し知りたい気持ちになった。
「それもしかして、ぼくのことを言ってるの?」と声をかけると、半分くらいがばつの悪そうな顔をし、もう半分が含み笑いをした。「違うよ、何も言ってないよ!」ぼくは彼らを逃がすまいと思って、スケッチブックを取り出してある提案をした。「座りなよ、誰かひとり似顔絵を描いてあげる」

 超特急でぼくが鉛筆を走らせているあいだ、彼らはまったく子どもらしかった。モデルになった一番背の小さい子は向かいの席に座ってもじもじとはにかんでいる。他の子たちはぼくのそばに群がって、絵と友達とを見比べて驚いたり笑ったりしている。あいつの鼻はもっとでかいとか、色はもっと黒いはずだとかいうアドバイスを多くもらったが、そこに彼らの人種的なコンプレックスがどれほど関係しているかは分からない。

 出来上がった似顔絵を渡すと、モデルの子はとても喜んだ。ほかの子たちも口々に「ムッシュー、次はおれを描いてよ!」とねだり出す。いつの間にかメトロは市内に入っていて、車両のなかの乗客も増えていた。ぼくは人の目が恥ずかしくなってきて、そそくさとスケッチブックをしまって降りる身支度を整えた。
「どうだい、中国人がいてよかったろ?」降りる間際に彼らに聞くと、ばつの悪さを思い出したような小さな「Oui」がいくつも返ってきた。

 今になって思うのは、あともう一言「ああいう冷やかしは人種差別にあたるから、もうやってはいけないよ」と念を押すべきだったなあということだ。もしかしたらぼくの意図は彼らに全然伝わっておらず、そのせいで彼らは次の日にはもうクラスの女の子をからかって泣かしたかもしれない。

 こういうことを心配するのはあまり良くない兆候だ。なぜならそれは、外国人であるぼくが一丁前にフランス社会に責任を感じはじめた証だからだ。ただ「住む」人の気楽な立場を諦めて、この地で「生きる」ことの憂鬱を受け入れはじめているともいえる。

しがらみのなかで生きるのが嫌で外国に逃げて来たはずなのに、ままならないなあ、嫌だなあ。   (おわり)

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