屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

祝福の日 (その昼のこと)

「元の世界にはもう戻れない」と覚悟を求める者がいる一方で、「日常への回帰」の旗をせわしげに振る者もいる。路地に降り立ったぼくが見たのは両者の主張のせめぎ合いのような街の光景だった。

 昨日までとは比較にならない数の歩行者が大通りを行き交っている。前から後ろから絶えずやってきて、地べたにしゃがみこんで写真を撮る隙がなかなか見つからないほどだ。ああそうだった、この道はブランドショップが立ち並ぶパリの目抜き通りで、本来ならば買い物客や観光客で昼夜を問わず賑わっているはずなのだ。「外出制限が長引くにつれ、街に人の姿が増えた」とぼくは繰り返しここで書いたが、あの程度の人出を多いと感じられたのは、ぼくが元の世界をさっさと忘れてからっぽの道に慣れてしまったからに他ならない。

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 とはいえ、ぼくがもし元の世界から突然ここにワープしてきたら、今度は逆に人の少なさを奇妙に思うことだろう。人々の顔を覆うマスクやゴミの散乱する路上にきっと目を丸くして、ディストピア映画の撮影中かと疑うかもしれない。ミシュラン社のマスコットみたいな防護服を着た女性がふたり、除菌スプレーを手にのしのしと道を歩いてゆく。両手に手袋、足元はブーツイン、頭髪をネットで覆っての完全防備だ。清掃局の職員だろうか? ちょっと尋ねてみたくなったが、マスクに覆われていない口で声をかけるのは憚られた。これから友達とも会うのだし、まずは薬局でマスクを買わなくちゃ。


 薬局内には3、4人の客の姿があって、薬剤師はみなマスクとフェイスシールドで身を固めていた。店の奥へと歩を進めると、そばにいた客がさっと身を引く。どうも不安を与えているなと気付いたが、時すでに遅し、べつの年配の女性客に注意されてしまった。「ちょっとあなた、安全距離を守ってくださいな!マスクもしないで、まったくもう……」
ようやく供給が追いついたらしい不織布のマスク(1枚5ユーロ!)をふたつ買い、すごすごと店を後にする。そして、またしても自分に事実の誤認があったことを反省した。ぼくは「人々が緊張感を失った」とも繰り返し書いたけれど、正確にいえば、緊張感を失った連中しかロックダウン下の街なかをぶらついていなかったのだ。彼女らのような用心深い人々はずっと神経をすり減らしながら暮らしていたのだろうから、風評被害もいいところである。なにはともあれ、これでぼくもやっとマスクを手に入れた。新たな世界の紳士の嗜み。胸元にハンカチーフ、口元にマスク。

 時計は午後3時を回ったところだ。わずかに西に傾いた日差しが頬に心地よい。広場のほうからスケートボードがひっくり返るときの威勢のいい音が聞こえてきたので、ちょっと立ち寄って広場の様子をビデオに撮ってみた。非常と日常、緊張と弛緩が交差した雰囲気が少しでも伝わるだろうか。


レ・アール広場 5月11日


 寄り道が過ぎてしまったから、約束のセーヌ川に駆け足で向かった。ぼくはこっちから、友人はあっちから川沿いに歩いて、そのうちどこかでばったり落ち合おうという大雑把な待ち合わせだ。堤防に沿って並ぶブキニストという路上古本屋がいくつか店を開けていて嬉しかった。彼らの鉄箱が閉ざされたままだと、なんだか列をなす棺桶みたいで憂鬱だから。

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古本たちのデコンフィヌマンと、これから降りる遊歩道。

 午後の光がたっぷり降り注ぐ河岸の遊歩道は、いくつもの再会劇が繰り広げられる長い舞台と化していた。連れだってぶらぶら歩く人々、自転車で駆け抜けてゆく親子、腰を下ろして語り合う仲良しグループや恋人たち。彼らのうちのどれほどが8週間にわたる離別を味わったのかぼくには知る由もないけれど、そこには確かに今日この日にしか生まれようのない祝福のムードが漂っている。抱きしめ合ったり大声で笑ったり、音楽をかけて踊ったりするのとはまた違う、抑えたところからしみ出すような喜びの表れ。誰もが多少おずおずと、親しい人とのあいだに生まれた新たな距離感に戸惑いながら、なおも一緒にいられる幸せを分かち合っている。その様子は初々しくて、なんともいえず愛らしい。

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穏やか。とはいえ、羽目を外すと叱られるようだ。

 ほどなくして、ぼくらはばったり落ち合った。花屋はぼくが思いのほかやつれていないことに安心し、一方でぼくは彼がちっとも太っていないことに驚いた。料理上手で知られる彼は、この2か月のあいだ毎日プロ顔負けの料理を自分のためだけに作っては、写真をインスタグラムに載せていたのだ。レパートリーは手作りピザからカンボジア料理にまで及ぶ。退屈で発狂しないためだと彼は言っていたが、ぼくには彼が隔離生活を満喫しているようにしか見えなかった。
 ぼくらは丸太のベンチに腰を下ろし、取り留めのない話を始めた。ぼくはマスクをしていない彼に合わせて一度は自分のマスクを外したものの、どうにも落ち着かなくなってふたたび着けてしまった。座席をひとりぶん隔てて座っているのに、まだ距離が近いような気がする。むろん感染が怖いのではなく、させてしまうことが怖いのだ。洞察力のするどい花屋はぼくの心情を見破って「神経質だなあ、もう大丈夫だよ」と笑った。ぼくだってもし立場が逆ならきっと同じように笑ったことだろう。

彼がマカロニグラタンの表面に絶妙な焼き色を付けたのと同じ夜、ぼくは呼吸苦を発症し、それが今ふたりの世界の見え方にわずかなズレをもたらしている。こうして並んでおんなじ川を眺めているにもかかわらず、ぼくの視界にだけあのイボだらけの球体の影が映りこんでいるらしいのだ。このヘンテコな影はいつ消えてくれるのだろう? あの日から心なしか減少したように思われる肺活量が元に戻ったときだろうか? そもそも元に戻るのか否か、ここがいつまでもはっきりしないのだ。この肺といい、世界といい……

ぼくはポケットから二つ目のマスクを取り出して、花屋に差し出した。
「これ、あげる。新たな世界の紳士の嗜み!」
「ええ、ありがとう。いくらしたの?」
「いいのいいの。プレゼント」
じつはこのプレゼントは招待状の意味も兼ねている。元の世界の日常は忘れ、ヘンテコな影の跋扈する新たな世界を強く生きよう。さすがの勘のいい彼も、そのメッセージは読み取りそこねたようだった。招待状をポケットに突っ込んで、「ねえ、コーヒーのテイクアウトでも探しに行こうよ」と軽やかな提案を投げかけてきた。   (つづく)

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