屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

ある老画家の脱出劇 (一)

 暇にまかせて昼寝をしていたら、携帯電話の着信音で起こされた。

 886から始まる番号は、台湾人の友人李さんの台北にあるアトリエからだ。
「いや、あなた、フランスもいよいよ大変なことになってきたねえ。こちらでもニュースでやってるよ」
「ほんとに、一晩で世界が変わっちゃったみたいです。先週まで人も街もあんなに呑気だったのに、今じゃなんだかこの世の終わりみたいで」

「生活には困っていないかい? もしものときはぼくに電話しなさい、家内に頼んで少しお金を送らせるから」
「ありがとうございます。あまりこの状態が長引かなければいいんですけど… そちらの様子はどうですか?」
「ぼくはいま隔離生活の十日目。いま家内が晩飯を持ってきてくれて、ドアを隔てて一緒に食べてるよ。ぼくはアトリエのなかで彼女は廊下。たしかにちょっと寂しいけれど、そのぶん絵に集中できるからそう悪くもないんだ。
とにかく、あなたもできるだけ買い物に出るのは控えなさい。行くときは、ぼくが分けてあげたマスクと手袋があるでしょう、あれを着けて行きなさいよ。人の目なんかもう気にしてもいられないんだからね。それじゃ、さよなら」

 ぷつりと切れた電話を握ったままぼくは途方に暮れてしまった。抗菌手袋はともかくとして、あの20枚あまりのマスク。せっかく李さんが箱からごっそりと取り出してぼくに手渡してくれたのに、ぼくは彼の目を盗んでそれを箱の中に返してしまったのだ。近所の薬局で手に入れた一箱40枚入りの安物だったけれど、あんなものでも今のパリではどこの薬局を探しても見つからないだろう。

 李さんは台湾画壇を代表する画家だ。台北とパリに大きなアトリエつきの住居を持っていて、三か月ごとに両都市を行ったり来たりして制作している。フランス語が話せず、また八十半ばという高齢でもあるので、パリに滞在している間はぼくが仕事や生活の手伝いに通っている。もうかれこれ5年の付き合いだ。

 李さんが台北からパリに到着した1月20日の時点では、ぼくらの話題はもっぱら先の台湾総統選のことだった。彼をはじめ文化人の多くが支持する民進党候補の圧勝に終わったことを、ぼくも一緒に喜んだ。新型肺炎という言葉が李さんの口から発せられたのは、その翌日か翌々日だったはずだ。
「けさ家内が台北から電話をよこしてね、中国大陸でずいぶん流行っているっていうんだ。なんでも人から人にうつるので、武漢の街をまるごと封鎖したらしい。こちらのニュースではそのことやってるかな」
「さあどうでしょう、ぼくのうちにも李さんのうちにもテレビがありませんからねえ」

あまり関心がなかったぼくは、何かこういう間抜けな返事をしたと記憶している。それにしても街を丸ごと封鎖して住人を家に閉じ込めるなんて、さすが中国共産党はやることが違う。ぼくら民主主義世界の住民には想像も及ばない措置だ。そんなことも言ったかもしれない。

1月24日の朝、李さんはアトリエから電話をよこした。
「きょう薬局にマスクを買いに行こう。例の新型肺炎の患者がフランスでも出たっていうんだよ」
「へえ、何人ぐらいですか?」

「家内は一人と言っていたけれど」
ぼくはあっけにとられてしまった。たったの一人。この国に6000万いる人間のうちのたった一人との遭遇に備えようっていうのか?あきれているのを悟られないよう、ぼくは答えを繕う。
「買っても無駄になっちゃうんじゃないかなあ。フランスでは治安維持のために公共の場で顔を隠してはいけないことになっているから、たぶんマスクもだめですよ。代わりにアルコールのジェルでも買いましょう」
言いながら、自分はいま半分うそをついたなと思った。フランスにそういう法律があるのは本当だが、それは別にぼくがマスクを買いたくない理由ではない。本当のわけは欧米には日常的にマスクを着ける習慣が全くないからで、ふたりでマスクを着けて歩いて街中でじろじろ見られるのが恥ずかしかったのだ。さいわい李さんは「ああそうか、じゃあそうしよう」と納得してくれた。ぼくは罪滅ぼしに「ほんとに流行ったらそのとき買いましょう」と付け加えた。

 1月31日、李さんは来週末に予定されていたバーゼル行きをためらい始めた。自分の絵が出品される国際アートフェアを見に行こうとぼくを誘ってくれていたのにである。彼の頭を悩ませるのはもちろん例のコロナウイルスだ。
「じつは台北の家内がね、人の集まるところは危ない、長距離電車にも乗るなっていうんだよ。行くなら必ずあなたに頼んで、N95というマスクをふたりぶん買って来てもらえって」
これは困ったことになったぞ。ぼくは普通のマスクでさえも人目が悪いと渋っているのに、その仰々しい規格のマスクは一体どういうものなんだ。ぼくはぜひともスイスに行って、雄大な山や湖をこの目で見てみたい。けれども高原の澄んだ空気は、できればそのN95を介さず胸いっぱいに吸い込みたいのだ…
 ぼくは李さんの奥さんのことも知っている。あれほど優しく穏やかな人が、どうしてこうも神経質になっているのだろう。たしかに中国ではすでに200人ほどが亡くなったというし、WHOという機関から非常事態宣言が出たとも聞いた。しかし中国とフランスは十分に遠いのだし、ましてや清潔なスイスに行くのにどういう危険があるというのか。まさか6人に増えたらしいフランスの国内感染者と同じ列車に乗り合わせ、ボックス席で仲良くサンドイッチを分け合うわけでもなかろうに……。 (続く)

※本人の許可を取っていないので、名前は仮名にしてあります。

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3月21日の花子。つぼみが開いてきたが今日は曇り。