屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

マルシェへ下る道

 ロックダウンが解除されてから初めての日曜がやってきた。水色の朝の空を見上げながら、毛布にくるまって2時間あまりを無為に過ごしたところで、そうだ市場に行かなくちゃと思い出した。日曜朝の市場での買い出し。パリに来てから何年間も従ってきた習慣なのに、たった2か月で忘れるのだから時間というのは恐ろしい。
ロックダウンのごく初めのうち、野外市場はスーパーマーケットなどと並んで営業を認められていた。しかし衛生管理が難しいことからまもなく閉鎖され、それ以降はぼくも食糧を専らスーパーで買うようになっていた。その市場がすでに眠りから覚め、今日もまたあの広場に立っているのだ。これは今すぐ出かけていって、この健康的な習慣を取り戻さなきゃ。

 空のリュックに野菜を詰める小袋と財布を放り込み、さっそく屋根裏部屋を出た。自転車でコロナピストを飛ばしてゆくのもいいけれど、今日は歩いてゆくことにしよう。歩きのほうが街のようすがよく分かるし、なによりその市場までの道のりは、ロックダウンの執行前にぼくが最後に歩いた道なのだ。フランス全土の商業施設が封鎖された3月15日の朝(ウイルスと花 (上) - 屋根裏(隔離生活)通信)、ぼくは市場に向かう道すがら違法に店を開けている花屋を見つけ、思わず花をたくさん買いこんでそのまま自宅に引き返した。チューリップがリュックのなかを独占してしまって、それ以上ものを入れる隙間がなかったからだ。あの道をもういちど徒歩で辿ることは、ぼくにとって2か月にわたった隔離生活のまとめを意味するような気がした。始めと終わりとをくっつけて、きれいな丸を描いてみたいのだ。

 

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 リュックとマスクを装備して大通りに降り立つ。車道を通る自動車もない、静かで穏やかな日曜の街。夜の名残りの涼しい空気を昇りかけの陽がじわじわと温めている。頭上には雲ひとつなく、記憶のなかのあの日の陰鬱な曇り空とは似ても似つかない。あのとき外はまだ肌寒く、ぼくは綿入りのアウトドア用ジャケットを着てこの道にいた。今朝は水色のシャツ一枚だ。例年ならばいくつもの段階を経てこの装いに至るのに、今年のぼくらはそれを一跨ぎにせざるを得なかった。
 モノクロ映画のワンシーンみたいに見えた街並みも、今朝はずいぶんと彩りがよみがえって見える。閉まったままの店はいまだに多いのに、日差しひとつが景色をこうも変えるのか。それともそれを見るぼくの心境があの日と今日とでそれほど違うのか。

 はじめに目にした営業中の店はおもちゃ屋さんだった。入口のガラス戸の奥には何か人気商品の箱が山積みになっていて、その脇でスーパーマン等身大フィギュアが大胸筋を見せつけている。しかしそれらを遮るように、ウインドウにはA4サイズの張り紙が連なっており、そこに描かれたマスコットキャラクターのライオンがプラカードを手にこっちを見ている――『店内ではマスクの着用を義務化しております』。その隣には大人向けに、なぜマスクが必要か、それがどれほど感染予防に効果的かを説明する紙も張ってある。ライオン君は多分いつも通りにへらへら笑っているのだろうが、今日はマスクで口元が隠れているものだから、つぶらな瞳に変な切実さが宿ってしまっている。

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King jouet(おもちゃの王様)というフランスの玩具小売チェーン。ハローマックの3歳年下で、マスコットキャラはライオン。トイザらスはフランスでも見かける。ほんのちょっと心配している。

 服屋も靴屋も下着屋も、ショウウインドウに似たり寄ったりのメッセージを貼り出していた。『マスクの着用を強くお勧めします』『アルコールジェルをご利用ください』『1メートルの距離を保って』『床の目印をはみ出さないで』『当店の収容可能人数は23名です』『10名です』『2名です』…… なんて不思議な光景だろう。ショウウインドウとは文字通り、商品が人を誘惑する窓だ。そこには徹底的に明るく優雅な夢の世界が築かれて、世知辛い現実はせいぜい隅っこに、消え入りそうに小さな数字で価格として記されるのみである。それが今では感染症という胡麻化しようのない現実が、誘惑する商品の前列に割り込んで道行く人に睨みを利かせている。このちぐはぐな不協和音にお店の人は気づいているのだろうか。

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 さてその道行く人はといえば、早くもマスクの習慣を放棄しはじめているようだ。通りですれ違う顔の7割方がむき出しで、1割の顔はその邪魔くさい布切れを顎にかろうじて引っかけている。コロナピストを自転車で駆け抜けてゆく人々にいたっては全然着けていないと言っていい。空っぽの車道の真ん中を、警官を乗せた二頭の馬がぽっくりぽっくり並んで歩いてくる。背の上で揺れながら談笑する口元はとても風通しがよさそうだ。誰かが吹く気だるげな口笛がひづめの音と重なって、日の照り返すアスファルト上にだらしなく反響してゆく。きみたちみんな、ライオン君のプラカードを読まなかったのかい? あの切実な目を見なかったのかい?

 あの日の花屋の前に差し掛かる。開店準備の真っ最中というふうだった。店内に人の姿はないが、その奥のドアの裏側で人が動いている音がする。店先に並ぶ色とりどりの花々はあの日のように街の景色から浮き立っては見えない。ほら、何もかももう元通り。泣くことなんてなかったね。ミモザの季節の終わりから牡丹の季節のはじまりまで、今年は一跨ぎすることになってしまったけれど。ぼくはそのまま歩みを進めた。

 行く手の景色がぱっと開けて、市場が立つ広場に着いた。街路樹に飾られた縦長の敷地に百を超える店が軒を連ねる、ここはパリ最大のマルシェのひとつだ。商人たちの威勢のいい呼び声がそこかしこから飛んできて、果物野菜の目の覚める色彩、海産物の目を見張る異形、そういうものが一年中あふれかえっている市場。ちょっと浮気もしたけれど、やっぱりぼくはスーパーよりも野性味あふれる市場のほうがずっと好きだ。またきみに会えてとても嬉しいよ……

 ところが2か月ぶりに目にしたマルシェは、「変わらないね」と声をかけるにはやや無理のある姿をしていた。       (つづく)

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