屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

木漏れ日と花

 オーボエ奏者は行儀よく、カラオケおじさんのダンサブルな曲が終わるのを10歩離れて待っていた。曲がアウトロに差し掛かり、おじさんが次のナンバーに移るべく機材の上にしゃがみ込んだ瞬間、オーボエはここぞとばかり大股でおじさんに歩み寄る。
(この記事は直近のふたつの記事の続きです。少し長くなりますが、こちらからどうぞ→マルシェへ下る道 - 屋根裏(隔離生活)通信
声をかけられたおじさんは腰を上げ、オーボエと顔を突き合わせて何か言葉の応酬を始めた。ふたりのあいだの身振り手振りはまるで牡丹の開花のようにみるみる大きく広がってゆき、そしてオーボエの肩をすくめる動作をもって急速にしぼんだ。踵を返して相棒のもとへ戻ってゆくオーボエ。その浮かない表情からして、おじさんに軍配が上がったことは明らかだった。ふたりはさっさと楽器を片付けて広場から立ち去ってゆく。

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「ちょっとあなた、邪魔をされたら困りますよ」
「邪魔とはなんだい、おれもおたくらと同じで音楽をやっているんだよ」
「ぼくたちのほうが先にいたでしょう!」
「それはおたくらが知らないだけさね!おれは10年も前からここで歌って踊って稼いでるんだ。おれが先で、あんたたちが後。分かったらほら、新参者はさっさとけえれ!次のナンバーが始まるぞ!」
アテレコをするならおそらくこんな感じだろう。お気の毒だが路上には路上のルールがあるのだ。すぐに身を引いたふたりは潔い。ぼくはこの一連の即興劇に大いに満足したので、そろそろ大通りを引き返して家路につくことにした。ひさびさの市場よ、楽しい出し物の数々をありがとう。来週もまた会いにくるからね。

 木漏れ日の斑点がゆらゆらと揺れる歩道のうえを歩いてゆく。しょっちゅう言われることではあるが、パリで足元を見ずに歩くのは少々危険だ。なぜかというに犬の落とし物が多いから。それとは別に最近になって目につきはじめた人間の落し物もある。それはマスクと手袋だ。

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ロックダウンの真っ最中からこの問題はSNSで度々シェアされていた。スーパーで買い物を終えた人々が、カートの中や帰り道に使ったものを遺棄してゆくという。「このパンデミックから何ひとつ学んでいない」「人間こそ地球を脅かす最凶のウイルスだ!」義憤に満ちたコメントがたくさん付くのがせめてもの救いではあるけれど、ご丁寧にもこうして二点セットで打ち捨てられているのを目の当たりにすると、さすがに心がちょっと暗くなる。どうしてこうも紋切り型な愚かな行為ができるのだろう? 捨てるにしたって、例えば手袋に空気を吹き込んで人形みたいに膨らませてみるとか、それをマスクのブランコにちょこんと座らせて木の枝に引っかけてみるとか、もっと可愛げのあるやり方も探せばたくさんあるはずだ。どうしてこうも無趣味で粗暴な捨て方ばかりが流行るのか……と、考えたけれどこれは当たり前だ。ウイルスを家に持ち込みたくないからみんな道端に捨てていくのだ。べたべた触って変な工作をする人間が芸術家のほかにいるものか。

 花屋の店先は行きに通りかかったときよりさらに鮮やかになっていた。春色の花の大きなブーケが日当たりのよい最前列に、まだ白い咢をいっぱいにつけたアジサイの鉢植えは軒下に並ぶ。入口付近には「ご入店はおひとりで」という旨のプレートが立っている。他の店のよりデザインが洒落ていて、花とのあいだに不協和音を感じさせない。きっと営業再開のめども立たないうちから、今日のような日を迎えるために準備をはじめていたのだろう。

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店内にはすでに3、4人のお客が列を作っていて、連れ合いたちは店の外で会計が済むのを待っていた。奥にあるカウンターの向こうで忙しく働く人がいる。ちょうど牡丹の蕾のブーケを包装しているその人は、あの日の女性店員だ。おもちゃ屋のライオン君と同様、口元をマスクで覆っているから、笑っているのかどうかは見えない。けれどもきっとそうだろう。悲しい顔や声を震わせるようなできごとは、もう過ぎてしまったのだから。

なんだか心が満たされて、列に並んで牡丹を買う気もなくなった。花屋をそのまま通り過ぎて帰り道をたどる。街路樹の根元でカモミールの白い小さな花が揺れている。どこからか運ばれてきたこぼれ種が、都会の真ん中でこんなにたくさん花を付けたのだ。そのうちのほんのひと茎を摘み取って、水色のシャツの一番上のボタンホールに差し込んだ。そよ風が吹くたび芳香が鼻先をくすぐってくれる。
 こうして再び生気の宿った大通りを歩いてゆく。もうことさらに花束の色彩を見せつけながら行くこともない、木漏れ日のもとで人々が笑うふつうの街にパリは戻った。だからぼくも少し気を許し、身の丈に合ったささやかな花を伴侶に選んで、内緒話みたいな香りを秘かに喜びながらゆく。      (おわり)

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(信じがたいことに、ぼくの書く長い文章を読んでくださっている方がいるようです。ありがとう、とても励みになっています。
あ、誰かが最後まで読んでくれたんだ!と分かってとても嬉しいので、よかったら下の『海外ブログ』のボタンをクリックしてくださいね!)

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