屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

ぬくもり ~コンフィヌマンのテーマ~

 フランスのとある大手スーパーのテレビCMを素敵だなあと思って見ている。ぼくの部屋にはテレビがないので知るのが遅れてしまったのだけど、ロックダウンの解除に合わせて電波に乗ったものらしい。


Intermarché - Je désire être avec vous


流れているのはニーナ・シモンというミュージシャンの楽曲で、強いアクセントのあるフランス語で「独りでいるあなたのそばにいられたら」とひたすら繰り返している。画面が真っ白に転じたのちに黒字で現れる短いテロップは、「ようやく。」。
厳格な移動制限が布かれなかった日本でも帰省を諦めた人はとても多かったそうだから、ぼくと一緒にこのCMにじ~んとしてくれる方もいるのでは… と、ひそかに期待しているのだけど、どうかなあ?

 ぼくはこの歌をいたく気に入って、気がつけば日がな一日ひとりで口ずさんでいる。となりの姉妹は壁の向こうでさぞ気味悪がっているに違いない。しかし彼女らはふたり一緒に、ぼくは独りでコンフィヌマンを耐え抜いたわけだから、ぼくのほうがより強烈にCMに感化されるのは当たり前なのだ。文句は一切受け付けないし、一緒に輪唱してくれるのならそれは大歓迎である。

                   ・

 分断を余儀なくされた生活のなかで、音楽はどれほど多くの人の心を支えていたことだろう。世界中の国々で、ときには国の垣根を越えてミュージシャンたちは音楽を発信し続け、ぼくたちを慰めたり励ましたり、心の闇を取り払ったりしてくれた。ぼくもYoutubeなどで音楽をたくさん聴いたけれど、なかでもいちばん印象に残ったものをここにもうひとつ紹介したい。ブールヴィルというフランスのコメディアンが1963年に出した『La tendresse』という曲のカバーで、ぼくにとってのコンフィヌマンの公式テーマソングだ。拙訳の歌詞に目を通しながら、ぜひいちど聴いていただきたい。


Symphonie confinée - La tendresse


『ぬくもり(※)』

 富がなくとも生きられる
 金などほとんどなくたって。
 領主も王女も今となっては
 そんなにたくさん残っていない。
 でも、温もりなく生きるのだけは
 きっと耐えられたものじゃない。
 Non, non, non, non,
 耐えられない。

 名誉がなくても生きられる
 なんの証にもなりはしないから。
 歴史に名前が刻まれなくても
 満ち足りたまま暮していける。
 でも、温もりなく生きるだなんて
 そんな人生は考えられない。
 Non, non, non, non,
 考えられない。

 なんて甘美な弱さだろう
 なんて素敵な感情だろう

 生まれながらにぼくらが抱く
 この温もりを求める心は。
 ほんとうに、ほんとうに! 

 働くことも必要だろう。
 でも、もし何にもしないまま
 何週間も過ごせというなら
 それにも慣れてしまえるだろう。
 でも、温もりなく暮らすとなれば
 時間は長く感じるだろう。
 Long, long, long, long,
 あまりに長く。

 青春の火のただなかで
 喜びは生まれる。
 愛はいくつもの偉業をもって
 ぼくたちの目を眩まそうとする。
 でも、温もりがそこになければ
 愛にはなんの意味もないだろう。
 Non, non, non, non,
 なんの意味もない。

 人生が情け容赦なく
 あなたのうえに降りかかるとき、
 ぼくらはもはや打ちひしがれた
 哀れなやつにすぎない。
 ぼくらを支えてくれるだれかの
 胸の温もりがそこになければ、
 Non, non, non, non,
 先には進めない。

 子どもがあなたに口づけをする、
 あなたに会えて嬉しいからだ。
 すべての悲しみは消えさって
 両の目には涙が浮かぶ。

 ああ、神さま、神さま!

 あなたの深い御心と
 熱情をもって
 止まない雨を降らせてください、
 温もりの大雨を。
 日々が終わりを迎えるときまで
 愛がすべてを治めますよう。


 動画に登場するのはそれぞれの場所で隔離生活を送るミュージシャンたちで、フランスのほかにイタリアやスペインからも数名が参加しているらしい。投稿日は3月29日となっているから、新規感染者数の増加にいまだ歯止めがきかず、未来の見通しがまったくつかなかった頃だ。いま改めて曲を聴き返すとあのころ漂っていた世界の終わりのような雰囲気が思い出されて、ある種のノスタルジーさえ感じてしまう。

 今となってはそんなムードは社会に毛ほども残っていない。人々はもうマスクもせずに大胆不敵なピクニックなどしているものだから、果たしてこんな殊勝で慎ましい歌をみんな本当に聴いていたのか、馬鹿正直にうんうん言いながら聴いていたのは自分だけなのではないか、などとあらぬ疑念が脳裏をよぎる。しかし動画の再生回数を見れば、その数はじつに400万にも届こうとしているから、ぼくは確かにあの末法的なムードを相当多くの人々と共有していたはずなのだ。
彼らはどこに消えたのだろう? 今ごろどこで何をしているのだろう? いまだにマスクをしているあの人、もしかしてぼくとおんなじテーマソングだったかな? それとももっと何食わぬ顔で、たとえばマクドナルドの行列のなかに紛れていたりするのかな?
隠れていないで出ておいで。ぼくは仲間だ、笑ったりしないよ!

――「なにもしないまま何週間も過ごす」っていうくだり、すごく予言じみていると思わない?
――子どものキスが出てくる曲の最後の部分も、まるで事態が収束する日を夢に見ているみたいだし…
――でも本当に、ぼくたちはついに分かっちゃったね。歌が言ってるように、本当に必要なものなんて実はあんまり多くないんだよ… 
――コンフィヌマンが終わるころには、きっと人類は以前と違った生き方を望むようになって…

曲を聴くうちに、当時のぼくが誰かと交換したかったおめでたい感想の数々までもが蘇ってきてしまった。いまさら分かち合う相手もないのに、行くあてを探して頭上をくるくる旋回している。仕方がないから「もう一回見る」を何度も何度もクリックしては、ひとりで画面に向かってうんうん頷いているありさまだ。
じつを言うと、こうして曲を紹介したわけはここにある。このちょっと時代遅れになってしまった感動を、新たに誰かと分かち合えるのでは… とひそかに期待しているのだけど、どうかなあ?        

(※)tendresse という単語はよく「優しさ」「思いやり」などと訳されるのですが、それらの言葉はなんとなく物足りず、すこしだけ個人的な解釈で言葉を当ててしまいました。
2か月続いたソーシャル・ディスタンシングは人どうしの物理的な距離を広げるものだったから、そのなかで人が渇望した「優しさ」にはより肉体的な重みがあったのではと思います。思いやりや配慮といった精神的な優しさよりも根源的な、体温とともにそこにあるような優しさをぼくはイメージしたので、ここでは訳を「ぬくもり」としました。フランス語のテストでは間違いとされるかもしれないので、ご注意ください!

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ジョルジュ・ド・ラトゥールの『マグダラのマリア』。髑髏は死、ランプは生の儚さのシンボル。夜の静寂に自分の生き方を問うている。

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