屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

激しい雨が降る

 きのうの夜、パリを嵐が通り過ぎた。雷をともなう激しいもので、ニュースの伝えるところでは3週間ぶんの降水量にあたる雨が数時間のうちに降ったという。郊外のいくつかの地域では家屋のなかに至るほどの浸水が起きた。
 屋根を乱打する大粒の雨音をぼくはベッドに寝そべって聴いていた。天窓のガラスのむこうでは稲光が絶え間なく閃き、真っ暗な部屋の壁を青白く点滅させた。

 「不吉だなあ」という独り言が思わず漏れた。それはデコンフィヌマン(ロックダウン解除)を目前に控え、ぼくがつとめて封じ込めていた感情だった。ぼくはスマートフォンに手を伸ばし、先ほど目を通したばかりのニュース記事をもう一度読む。

『ドイツのデコンフィヌマン:憂慮すべき兆候が早くも』
「日常への回帰に打って出たわずか数日後、高リスク地域においてコロナウイルスの再生産数の上昇が確認され…」

 あのドイツでさえこうなのだ。フランスは本当に今の段階で人の動きを解き放っていいのだろうか?

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ルーヴル美術館前の凱旋門。時間は夜8時ごろ。


  嵐がやってくる数時間前。コインランドリーにかけた洗濯物が乾くのを待ちがてら、ぼくは近所を散歩することにした。ちょうど陽が沈みはじめる頃合だったから、すこし西の空が見たくなったのだ。ルーヴル美術館の前庭にあたる広場に差し掛かると、雲の隙間から暖色の光が滲み出しているのが見えた。周囲ではツバメが忙しく飛び回り、芝生すれすれの急降下を繰り返していた。ついついビデオを撮ったけれど、このときはそれを嵐の前兆とまでは考えなかった。単純にこの春最初のツバメに出会ったこと、季節の廻りを実感できたことが嬉しかったのだ。ツバメのほうも例年より伸び伸びと楽しげに見えたのは、ロックダウンの施行から芝生のまわりにテープが張られ、人が立ち入れなくなったおかげかもしれない。

 

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マイヨールの彫刻『夜』。日本の国立西洋美術館にも所蔵されている。

 この日も人出が多かった。自分だってその一人だから偉そうなことは言えないが、もはや健康維持のための運動という体裁さえ繕わない人が大半を占めているように見える。地べたにしゃがんで砂利をいじくる子どもたちをほったらかして、おしゃべりに花を咲かせる大人たち。ひとりの子どもがその手で母親に飛びついた。母親はその子を抱き上げて頬っぺたに… ぼくからは見えなかったけれど、キスはしなかったと願いたい。一時はあれほど一般化していたマスクも着けている人はまばらだった。まるで戦禍が過ぎ去ったかのような穏やかさが夕暮れの街を包みこんでいる。

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 洗濯物を回収して部屋に帰り、夕食の用意を始めたところで最初の遠雷が聞こえた。ほどなくして屋根板をぱたぱたと雨粒が打ち始める。手鍋のなかで生米を研ぎながら、ぼくは昨日の日記に引用した世論調査のことを考えた。あの調査結果が正確なものなら、フランス人の過半数はロックダウンの解除に不安を抱いているはずだ。となれば先ほど目にした彼らは何者だろう。残り3割を占める楽天家グループに属する人々だろうか?
 ここでぼくはあるアイデアを抱いた。さっき外で撮った写真のなかの人々を「ひとりで真面目に運動している人」と「ただぷらぷらしている人」に分けたら、ちょうど7:3くらいの割合になるのではないかというものだ。我ながらばかばかしいなと思いつつ、鍋を火にかけてさっそく取り掛かった。嬉々として写真のなかの人影を追い始めてすぐさま、ぼくは重大な発見をすることになる。

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 立ち入り禁止のテープをかいくぐって芝生に侵入し、仲間とくつろいだりヨガをたしなむ人達の姿。ぼくの驚きはその事実より、ぼくが散歩中に彼らの姿を全く意識しなかったことにある。というのもこのフランスにおいてこの手のルール違反はあまりにありふれていて、虫を追い回すツバメほどにも人々の関心を引かない。だからぼくも無意識のうちに日常の背景の一部として彼らを処理し、目の前を素通りしていたのだ。
 隣国ドイツとは対照的に、規則や規律に頓着しない人がフランスにはたいへん多い。もっと言えば、従わないことをクールだと感じるメンタリティさえないとは言えない。この国民性の違いを語る際によく挙げられるのは横断歩道の赤信号の例で、ドイツにおいては車が来ていないからといってこれを渡れば批難の視線を一身に浴びることになる。しかしここフランスで軽蔑されるのは馬鹿正直に信号が切り替わるのを待っている人のほうなのだ。よくあるステレオタイプと思われるかもしれないが、いずれのパターンも実際に経験したぼくには大いに頷けるものがある。

 先の日記で書いたとおり、デコンフィヌマン後の生活には多くの制限が付いてまわる。おそらく順守されないだろうと思われる点や、もともと建前に過ぎないような規則も多い。たとえば「集会は10人以下で行いましょう」なんて決まり事を、バーやクラブを奪われてしまった孤独な都市生活者たちが念頭に置いてホームパーティを行うだろうか?
 もしも感染が再拡大したらそれはフランスの国民性のせいだ、なんて乱暴なことを言うつもりは勿論ない。もともとこの規制解除は時期尚早で、国の経済を救うために国民を生贄にするようなものだという批判が多いのだ。しかし立ち入り禁止の芝生の真ん中で堂々たる太陽礼賛のポーズを披露するこの臆面のない楽天主義は、少なくとも感染症収束の助けにはならないのではないか。

 スマートフォンのニュースを閉じてぼくは寝てしまうことにした。夕方ツバメを見て喜んでいた人間が、夜になってヨガのポーズに憂鬱を覚えるとは、我ながら本当にばかばかしい。ぼくの胸のなかに隠れていたちっぽけな不安が、雨と雷のド派手な演出を受けて、拡大された不気味な影を壁に投げかけているにすぎない。ただそれだけだと信じたい。

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部屋に飛び込む稲光。

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