屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

クリストフ君の災難

 「コロナ疲れ」という言葉を知って、ぼくは過去1か月間ここに書いてきた文章の内容を反省してしまった。たしかに昨今はテレビをつけてもインターネットを覗いてもコロナウイルスの話題で持ちきりで、心の休まる隙もない。そのうえでぼくがなおもこの風潮に加担することに果たして意味はあるのだろうか? ぼくの無責任な書き物が、コロナに疲れた誰かの肩にさらなるコロナを乗っける結果になっていやしないだろうか?
 悩んだ結果、今回は5年ほど前に書いたエッセイをここに載せてみることにした。むろんコロナや感染者や隔離生活といった単語は登場しないけれど、内容はこの屋根裏部屋に関するものだから、『屋根裏(隔離生活)通信』の記事として的外れとも言えないと思う。
今の隣人ルイーズのふたつ前の隣人、クリストフ君とのあいだに起こったちょっとした非常事態の記録である。

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『クリストフ君の災難』

 部屋についている小さなシャワーキャビンの排水管が詰まってしまった。

 築百年はざらに経つパリの住宅にこの種のトラブルは付き物なのだけれど、今回はどうも様子が違う。水捌けが悪くて困るという程度の詰まりではなく、足元の水がまったく引かないのだ。シャワーを中断して外で待ってみても、10センチほどの深さを保ったままで水面は微動だにしない。排水口から市販の液剤を流し込んでみても、ラバーカップ(俗にいうスッポン)でずこずことやってみても、豆腐にカスガイ、糠に釘である。
さてどうしようと思っていると、壁の向こうのとなりの部屋からもずこずこという音が聞こえてくる。やがて音が止んだかと思うと、僕の部屋のドアを誰かがノックする――隣人のドイツ人学生クリストフ君である。
クリストフ君は狼狽しながら状況を説明する。彼の部屋のシャワーも同様にひどく詰まっていて、ぼくがこちらでずこずこすると、あちらのシャワーのたまり水がちゃぷゃぷと揺れるのだそうだ。そしてやはり、あちら側でずこずこしても事態は好転しないという。

 ぼくらは大家さんに電話した。すぐに人を寄こしてくれるそうだ。仲介の不動産屋からおばさんがひとりやって来て、長さ5メートルほどの蛇のような器具を排水口から差し込んで奮闘してくれたが、予想以上の困難な状況にやがて解決を諦めた。
彼女が言うには、詰まっているのは二つの部屋から伸びる排水管の合流地点らしい(図参照のこと)。つまりぼくとクリストフ君はパイプ詰まりと汚水を床下で共有する運命共同体である。しかし彼女はぼくが彼よりラッキーであるという。それはぼくの部屋が隣室よりもわずかに高いところに位置するためで、迫りくる汚水の脅威にさらされるのはまず彼であってぼくではないのだ。その証拠に、ぼくの部屋で異常が見られるのはシャワーの排水機能のみで、トイレやキッチンは普段と変わらず清潔に保たれている。一方クリストフ君のほうはというと、どうやらそうでもないらしい。たしかに彼の困惑ぶりからして、状況がぼくより過酷であろうことは想像に難くなかった。あえて詳細は聞かなかったが。

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この挿絵も当時のもの。たしかに彼はこんな感じだった。


「明日プロの配管屋が来るから、それまで水回り全般を使わないように」そう言い残しておばさんは帰って行った。ぼくらの身の寄せどころを心配した大家さんは、パリに住んでいる彼女の親戚の家に泊まるよう勧めてくれ、クリストフ君はそれを受けた。大学で国際法を学ぶ彼は、可哀想に大事な試験を数日後に控えているのだ。ぼくはといえば大事な予定など何もないし、他人の家では気兼ねするので自室に留まることにした。

 これは困ったことになったと口では言いながら、ぼくは意外と何とかなるものだとも思っていた。トイレはすぐ向かいにあるルーヴル美術館のものを利用し、シャワーの代わりにお湯を沸かしてタオルで体をよく拭いた。こういう屋根裏部屋はもともと下の階の住人に仕える女中さんが住んでいたところで、彼女らは皆こうして体を清めていたはずなのだ。シャワーなんてつい最近になってから無理矢理しつらえられた、本来の屋根裏には似つかわしくないぜいたく品なのだから。

 翌日やってきたプロの配管屋はものの10分でさじを投げた。こいつぁ駄目だよ、大工事が必要だ。管理組合の同意をもらって、廊下の床まではがさなくっちゃ。何日かかるか分かったもんじゃないよ。自分の部屋でふたたび勉強に打ち込めるという期待を打ち砕かれ、クリストフ君は悲愴な面持ちで仮住まいへと帰って行った。

いよいよぼくも少しは真剣に身の振りかたを考え始めた。水を流さずに料理はできないから、冷凍食品をいっぱい買ってきて冷蔵庫に詰めた。何日間もシャワーなしではさすがに、ぼくは良くても周りが迷惑であろうから、一計を案じて市民プールに通うことにした。多分シャワーを浴びに行くだけでプールで泳いだりしないけれど、いちおう水泳パンツは買わなきゃな。

 こうした工夫にも関わらず、水を流さず暮らすというのはなかなか難しいものだった。十分気をつけているつもりでも、ちょっとしたおり、例えば歯磨きの最中などに、いつものくせで思わず蛇口をひねって水をちょろちょろと出してしまう。一度などうっかり普通にトイレを流してしまった。こうしたぼくの不注意のたびに、クリストフ君の部屋の水まわりに残された余白が、いうなれば彼のライフポイントが削られてゆく。あの真面目で物静かな罪のない青年の命運が、縁もゆかりもない注意散漫な隣人の行動に否応なしに委ねられている。その人生の不条理が何故だか異様に可笑しくて、間違えて水を流すたび変な笑いがこみあげてしまう。一体何がおかしいというのか。可哀想じゃないか真面目にやれ。そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、どういうわけか笑ってしまう。トイレを普通に流してしまったときなどは悪魔のような高笑いが飛び出して自分でも大変おどろいた。自分の性格がこんなにも陰湿だったとは、今まで全然知らなかったことだ。

 そして三日目の朝、排水管はあっけなく直ってしまった。管理組合から若い配管工がふたり派遣されてきて、馬鹿でかいポンプで詰まりを無理やり押し流したのだ。もちろんクリストフ君は大喜び。心底安心したという顔をぼくに向け、これでお互い救われたねという。

その素朴でまっすぐな目を見て、ぼくは自分が当惑していることに気がついた。

 それじゃあなんだ、今夜は市民プールに行く必要がないわけか。もう水泳パンツも買わなくてよくなったのか。トイレもシャワーも自分のうちで済ませられ、冷凍食品は食べても食べなくてもよく、歯を磨くにも顔を洗うにも何のスリルも伴わない、便利で快適な暮らしが戻ってきたわけか。

かりそめの非日常のなかで湧き続けていた高揚感が、排水口を見出せぬまま膝下でちゃぷちゃぷ音を立てている。