屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

2週間後へのタイムスリップ (上)

 完全隔離生活のさなか、これはどうもカフカの小説『変身』みたいだなと思うことがあった。

 ある朝とつぜん巨大な虫の姿で目覚めてしまった青年グレゴールは、家族によって寝室にかくまわれ、壁や天井を這い回るだけの無為な生活を送ることになる。家族ははじめ献身的に世話をするが、次第に彼の存在を疎むようになり、ついにはリンゴを投げつけて彼を死に至らしめてしまう。グレゴールに食べ物を運んでやるのは彼の妹の役割で、彼女はバイオリンを習っていたから、ぼくに食糧を分け与えてくれていた隣人のルイーズがはまり役だった。彼女からリンゴが飛んでくるようになる前に、こうしてジーンズに足を通せる体に戻れたぼくは幸いだ。

 2週間の自宅療養を終え、ぼくは今日(4月10日)晴れて自由を取り戻した。ここでいう自由とはもちろん、自分の食糧の買い出しに近所のスーパーまで行けることである。祝福の花火もライトアップもないささやかな開放だけれど、当事者にとってはやはり嬉しい。天窓から覗く雲一つない青空に心をせっつかれながら、外に出るための身支度を進める。

 用意の手間が煩わしかった外出証明書だが、今回はすこし勝手が違う。政府のホームページで入力したものをスマートフォンに直接ダウンロードできるようになったのだ。それから外出条件にふたたび変更が施され「健康維持のため単独で行う運動」が朝10時から夜7時まで禁止となった。春の陽気も手伝ってジョギングに出る人が増えたため、彼らの活動を人出の少ない時間帯に分散しようとの狙いがあるらしい。ぼくが虫をやっているあいだにも世は刻々と変化していたのだ。


 部屋を出て懐かしい螺旋階段を降りはじめるも、足元がなんだかふわふわとして落ち着かない。たったの14日間のうちに体が訛ってしまったのか、それともこれが文字通り「嬉しさで地に足がつかない」というやつなのか。いずれにせよ気持ちを引き締めていこう。なにせこの国はいまだ非常事態のさなかにあって、昨日だってわずか一日で千人以上もの人が亡くなったのだから。個人的な開放に浮かれてスキップなんかしようものなら、やっぱりそれは人々の目に不謹慎と映ってしまうことだろう。最寄りのスーパーに直行して、寄り道せずにさっさと戻ってくる。これに尽きる。

 通りにつながる扉を開くといきなり通行人に出くわした。平時なら珍しくも何ともないことだが、ロックダウン以後の閑散とした街では十分驚くに値する。ましてやぼくにとってはじつに二十日ぶりに見る生身の人間だから、ぼくはほとんど感動しながら「こんにちは!」と挨拶をした。しかしこのマスクをかけた中年の男はぼくをちらりと見たかと思えば、怪訝な様子で返事もせずに通り過ぎて行った。人との接触を恐れているというふうでもなく、ただただ「なれなれしい奴だ」とでも言いたげな目つきと歩調であった。おまけにこの男、4月というのに半袖短パンだ。
 ぼくはわずかに興が削がれたが、考えてみればだいたいの人は家族と共に隔離生活を送っていて、彼らにとっては人間など別に珍しくもないわけだ。むしろ伴侶と四六時中顔をつき合わせているのにうんざりして、買い物を口実に外をぶらついているという線も考えられる。それもまたひとつの不幸であるから、短パン男の不愛想も水に流そう。

 そう思い歩き始めてすぐに、ぼくは眼前の景色に異様なものを見て取った。街のあちこちに人影がうごめいているのだ。人々が白昼堂々連れだって道を歩いたり、広場のベンチでくつろいだりしている。ファミリーやお年寄りの姿もある。停留所でバスを待っている人も、煙草をふかしている人も……そんなことは当たり前だろうと言わないでほしい。このフランスはいま非常事態で、史上はじめての全面封鎖を経験している国なのだ。ぼくが熱を出すまえに最後の外出をしたときには、外を歩く人の姿など本当にまれだった。非常事態にふさわしい緊張感が確かに社会にみなぎっていて、狭い歩道で誰かとすれ違うときなどは顔さえ背けんばかりだった。

 ロックダウンが宣告された日、大統領演説で繰り返されたあのフレーズが脳裏をよぎる――「わたしたちは戦争中なのです」。そうはいっても大統領、あの男、短パンをはいてぶらついていますよ……買い物袋を提げた母子が、サイクリングを楽しんでいますよ……それに見てください、あそこの男にいたっては、噴水広場でカモの家族に豆を撒いているじゃあないですか……    (続く)

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歩きながらのスナップ。ぼくは人物を6人見つけたが、もっといるかもしれない。。
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「いちおう盗っておくか」ぐらいのカジュアルな感じで、サドルも消えていた。