屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

半径1km春めぐり (上)

 朝7時。目覚めは良好。天窓の外は新鮮な日の光に満ちている。

 (この記事は3月24日の出来事を振り返って書いたものです。パリの最新の状況とは異なる場合がありますのでご留意ください)
外出の自由が失われてから唐突に晴れはじめた天邪鬼なパリの空も、今朝だけは癇に障らない。なぜならぼくは今日、外出が許される条件のひとつ「健康維持のための単独での運動」をやりにいこうと決めているからだ。なにしろかれこれ三日ほどこの狭い屋根裏部屋から外に出ていない。血行が悪くなってなんだか肩がこるし、気持ちもわずかに鬱々としてきた。許可されている外出とはいえ、非常事態下で昼日中からふらふらほっつき歩いているとやはり多少は阿呆に見えてしまうから、ぼくは人目も人出も少ない早朝を選んだのだ。
 いつになくてきぱきと身支度をし、ドアノブに手をかけたところで、例の外出許可証を持って出なくてはと思い出した。3月19日の日記に書いたとおり、セーヌ河岸に大量のランナーが現れたことで運動の項目には改変が施され、その時間が1時間以内であることと、自宅から半径1km以内に留まることが条件に付け加えられた。こうして行動範囲まで決められてしまうと、いよいよ首にリードのついた犬にでもなった気分である。

 しんと静まり返った螺旋階段を下りてゆく。この地区の住民はお金持ちが多く、この建物に住む人々もぼくら6階の住人を除いてはみな裕福だ。こういう人たちはたいてい地方に大きな庭付きの別荘を持っていて、外出制限が始まる前後にあわててパリから脱出していってしまった。これについては医療砂漠である田舎に感染拡大のリスクをもたらしたとか、あるいはもっと単純に金持ちはずるいとか様々な批判があるけれど、身近な人のなかに実例を知るぼくとしては、どちらかといえば彼らのことを同情的に見てしまう。そうはいってもあそこの家には遊び盛りの子どもがいるからな、とか、あそこの旦那は糖尿の気があるから都会に残るのが怖いだろうな、とか。フランスの場合は国を挙げてのロックダウンだから、田舎に行ったからといって自由に飲み歩けるわけでもない。自家用車で別荘まで移動して、そこできちんと決まりを守って暮らし、あとは自分が発症して少ない病床を埋めたりしなければいいわけだ。

 外に出ると空気は爽やかに澄んでいた。これはじつは少なからぬ人が期待していたロックダウンの二次効果のひとつで、実際にパリでは過去40年間見られなかったほどの大気の質の改善が確認されたらしい。ぼく自身、春先にいつも悩まされていた目や鼻のかゆみが今年はまったくないことに驚かされている。花粉症だとばかり思っていたけれど、自動車の排気ガスの影響のほうが大きかったのかもしれない。

 隔離生活にまったく不向きなぼくの屋根裏部屋だが、その立地はこの半径1kmルールにおいて相当に恵まれている。世界遺産のセーヌ河岸の一番いいところが、その範囲内にすっぽりと収まっているのだ。本日のルートとしては、そうだな、ポン・ヌフ(パリで最も歴史の古い橋)の上を歩いて対岸へ渡り、帰りはポン・デ・ザール(パリで初めて作られた鉄橋)を渡って戻ってくるとしよう。どんなにゆっくり歩いても45分に収まるコースだ。

 車通りも人影もほとんどない河岸の道路に沿って歩く。こんな無人の光景は2015年の同時多発テロのとき以来だが、あれは11月も半ばの暗くうら寂しい季節だった。けれどもこの朝はどうだろう、プラタナスの並木が新芽をいっぱい吹きだしている。昇る朝日が地表に水面にやさしく微笑みかけている。ひとりでに軽くなってゆく足取りを抑えることが難しい。頭のなかのプレイリストが鼻歌を探して回転をはじめる。

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 ポン・ヌフに差し掛かったところで数人の警察官の姿が見えた。橋を渡る車を一台ずつ止めて外出許可証のチェックをしているらしい。実際のコントロールに出会うのはこれが初めてのことだ。ぼくはなんとなくばつが悪い気がした。おそらく車に乗っているのはテレワークができず、かといって休業もできない社会的に重要な職種の通勤者なのだろう。一方でぼくは一介の散歩者で、その活動には何らの緊急性もない。そもそも今更ではあるけれど、この状況下において散歩は運動として認められているのだろうか。そうでなかったらどうしよう。ちょっと小走りしてみようか、それともこれは散歩ではなくウォーキングですと答えてみようか。罰金はたしか初犯で135ユーロ(1万6千円)。穏やかな朝に緊張が走る。    (つづく)

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ポン・ヌフ上の検問。