屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

ウイルスと花 (上)

 「もうすぐ閉店しますから、お引き取りの準備を!」

  カフェのテラスの隅っこでスケッチをしていたぼくの背中ごしに、ウェイターが突然こう告げた。時計を見ればまだ22時を過ぎたばかり、土曜の夜の店じまいには少し早すぎる。それはもしや国からのお達しですかと尋ねると、「まったくもってその通り、飲食業はもうお終いだ」と投げやりな答えが返ってきた。他の客たちもぶつくさ文句を言いながら勘定のために財布を取り出す。

 家に帰って調べてみると、なるほど確かに先ほどフィリップ首相より『生活に必要不可欠とはいえないすべての施設の閉鎖』が発表されたとある。つまり食料品店や薬局、駅や銀行などを除くフランス国内の店舗のすべてが、カフェやレストランはおろか、映画館も服屋も床屋もチョコレート屋も、明日の朝からシャッターを上げないということだ。規制解除の時期は未定。

 これは大きな決断だ。その要因として首相はcovid-19の深刻な感染拡大にかかわらず、国民のあいだに危機意識が浸透していないことを挙げている。これは皮肉にも、カフェで他の客たちを描きながら僕も繰り返し思っていたことだ。さすがに出会いがしらに握手やビズ(頬を寄せ合い軽いキスをする挨拶)をする人はずいぶん減ったように思うけれど、席に着いてからパンをひと切れつまみ上げるまでのあいだに手洗いに席を立つ人のなんと稀なことだろう。ビズは無しねと言いながら集まった慎み深い人々でさえ、陽気なお酒を飲み交わしたあとでは憂き世の悩みもすっかり忘れて互いのほっぺにチュッチュッとやってしまったりする。「言いつけを守れないならお出かけは無し!」とお沙汰が出るのも分からなくはないのだ。

 翌朝窓から外を見てみると、普段は人でいっぱいの目抜き通りが閑散としていた。たったの一夜で世間の空気がぐっと深刻味を帯びた気がする。うろうろするのも気が進まないが、冷蔵庫がからっぽでは仕方がないから買い物をしに外に出た。人のひしめく野外の市場と換気の悪いスーパーとではどちらが安全といえるだろうか。ぼんやり考えながら表通りを行く。「当教会でのミサは当面のあいだ休止いたします」「親愛なるジャズファンの皆さん、よりよい時期にまた会いましょう!」昨日の夜までは無かったであろう張り紙が、閉ざされた扉や黒々としたショーウィンドウのうえに点々と続いている。まばらにすれ違う人影は当惑しきった気の毒な旅行者と、買い物カートを足早に引いていく現地人。市民と思しき人々のなかにもマスク姿がちらほら見られて驚いた。こちらではマスクなど病人がするものだという認識があって、政府からも健常者は着用を避けるようにとの勧告が出ていたけれど、新規制の衝撃を受けて自制の箍が外れたところもあるのだろう。誰も待たない信号機が青に変わる。教会の鐘がむなしく鳴って止む。春も間近なはずなのに、花の都はまるでこの世の終わりのように寒々とふさぎこんでいる。

 視界の隅に不意に色彩がちらついて足を止めた。からっぽの車道の向こう側に、花屋が一軒開いているのだ。 (続く)

 

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ジャズバーの張り紙。「もっといい時にまた会いましょう!」